2017年08月12日

「評価」で人は育つのか

今年度になって、まあ、いろいろな事情があって、学生の臨床実習と、初期研修医の研修における「評価」がかなりスケールアップしました。


スケールアップ、というのは、決してグレードアップではなく、評価の項目がやたら多くなり、細かくなったことのみを指します。


ルーブリックという、「こういうことが出来る」系の具体例が採点基準となっていて、めっちゃできる=松、まあまあ=竹、あまりできていない=梅、的に、行動を観察して評価を当てはめていく形式です。多くの大学などで導入されているようですから、評価するかされるか、経験された方もおられるでしょうが、実際にやっておられない方には、ちょっとイメージが湧きにくいかもしれません。


私は少し前にアクティブ・ラーニングに関する通信講座を受けた際に、初めてルーブリックというものを学びました。その時には、「レポートや小論文の採点をするのには便利だなあ」という印象しかありませんでしたが、これを行動の観察にも用いる、と聞いたときには、ちょっと違和感を覚えたものです。


神戸大学の岩田健太郎先生が週刊医学会新聞の連載『ジェネシャリスト宣言』で以前書かれていたのですが、「医学教育の専門家は『データは集めれば集めるほどよい』という信憑にとりつかれていて、やたらとそうした妥当性に低い情報を集めたがる」「評価されている側がその評価を妥当であると感じているかが大事なのに、実際はそう感じていない」まさにその通りです。


医学教育学会で教育の専門家の方々による発表を拝見していても、データを集めて「発表のための研究」となっているものがあるのですね。もちろん数は少ないのですが、「それで、どう育てるのか」という理念がない。


本気でエビデンスを構築するつもりならば、1〜2年でお手軽にできるような、「アンケート」結果でものをいうのではなく、実際にそういうカリキュラムにしたらアウトカムはどうだった、どういうドクターが増えた、そこまで意識して研究をすべきでしょう。

そういう長期的な視点で研究ができないのが、現在の日本の研究者が置かれている状況…という話はまた別の話ですね。


エビデンスがないのに空論だけで体制が決められ、書類とデータ入力の事務作業がどんどん増える教員が、本当に大切な「プロフェッショナリズム」を後輩に教える暇もなくなっている、というのが現状ではないでしょうか。


それこそ今盛んにいわれている「プロフェッショナリズム」。これも岩田先生が書かれていたことですが、プロフェッショナリズムを「評価して」、その評価されている現場での医師の行為は、本当にプロフェッショナルか、という疑問があります。プロフェッショナリズムとは、たれも見ていないときでも同じように行動出来ることで、見られていないとできないのは偽りのプロフェッショナリズムだと。


ガチガチの評価をすることで、却って、「評価されているときだけ上辺を繕った行動を取ればいい」という、昨今問題になっている「バレなければいい」メンタリティを産む土壌になるのではないか、とも述べておられ、これにも強く同意するものであります。


プロフェッショナリズムは、「理想的な」行動をなぞることではなく、上級医が背中を見せてこそ涵養されるものではないか、と考えますが、ここで難しいのが「その上級医が必ずしもプロフェッショナリズムを持っていないのではないか」というところ。


ここだけの話、昨今話題?の新専門医制度ですが、あれを…(以下、やっぱりここで書くのは止めておきます)

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