今日のブログは、ふざけた内容、無理矢理な内容と思われる方もおられるかもしれませんので、あらかじめご注意願いますが、私は大まじめです。
先日のNMB48 6th Anniversary LIVE、初日にて、NMB48の大組閣が発表されました…いや、組閣や研究生の昇格、その是非や意見はここで取り上げるべき話題ではありませんので、それはいいのですが、その後発表された「上西恵の卒業発表」を見て思ったことを書きます。
突然の卒業発表で、事前に聞かされていなかった(らしい)須藤凜々花が「わああああああああああああああああん!」と、最近あまり聞いたことがないくらい号泣して舞台袖にはけていきましたが、NMB48における母親のような存在であった上西恵が、突然「いなくなる」ことを実感した衝撃がすごく伝わってきました。
閑話休題、つい先日、死すべき定め――死にゆく人に何ができるか(アトゥール・ガワンデ 著、原井 宏明 翻訳)を読みました。読書記を書こうにも、内容が深く大きく、気軽には書けないのですが、現代医学によって極限まで引き延ばされた生命が、それでも終わりに近づく、その終わり方が、私たち医療関係者も、そうでない方々も、想像もしていなかった状態になってきている、それをどのように支えるのか、そういうテーマで、とにかく非常に「重い」です。若い、希望に満ちた医療関係者の人は、読むとすごくしんどいかもしれません。
全編を通したメッセージとして受け取ったのは、生きているものには必ず死が訪れる、それを意識して、準備しておく(物理的にも、精神的にも)ことがこれからますます「よく生き、よく去る」ためには必要となってくるだろう、ということ。私たち医療関係者のほとんどは、患者さんを「治す」ことだけを習ってきました。けれども、超高齢化社会で大切なことは、「生きている間、よりよく生きる」。そのためには、終わりがあるならば、早めに知っておく方が、絶対にそこから逆算してよりよく生きるために家族や周りの人たちができることがあるはず、それを正しく知っておいていただく、というのも私たちの、大変重要な役割なのだと思いました。
いつか必ず訪れるその時が、突然なのか、前兆、予感があるのかによって、その時までの過ごし方が変わってくる。上西恵が卒業するまでの間、須藤凜々花の生き方、過ごし方がどのように変わるのか。個人的に注目します。
2016年10月23日
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