2017年にはK大学からK先生が仲間入り。研究部門を引っ張ってくれています。その年にはK先生とT先生が入局、K先生はその大道芸でBBQの景色を一変させ、T先生は果てしない癒やしの世界を医局にもたらしてくれました。
さらに時が経ち、当時循環器内科の教授であられた堀江先生からの宿題(滋賀に呼吸器内科講座を!)がついに果たされるときがやって来ました。2018年、呼吸器内科が循環器内科から独立し、初代教授が中野先生に決まったのです。一つの目標を達成した感はありました。
と同時に、その時に改めて、呼吸器内科にはこれ以上ポストは増えない、そこで自分もこれ以上の展開はないという現実に目を向けざるを得なくなりました。これまでは独立という目標に向かって突き進んできたのですが、その目標が達成されて、このまま自分がここに居座ると若い先生方のポストがない、彼らにポストを譲ることを考えなくてはならない、という意識が芽生えてきました。
元々数名でやっていたときには、カンファレンスもお互い意見を言う、勉強してきてそれを共有する、という感じであったものが、学年の離れた若い先生が多くなってくると、ただ私が経験を語って皆がそれを黙って聞く、という図式になってきたり、なんとなく一方通行の形になってきていました。当初は私自身古い教育を受けてきた人間ですから、そのやり方に特に疑問を感じていませんでしたが、いろいろ教育について学ぶにつれて、こういう形のカンファレンスは教育的ではないな、もっと皆が発言できるような場作りが自分の仕事なのではないか、ということに思いが至りました。逆にそうしますと、自分の存在意義であったり、自分としての成長(もはや成長することは期待できないかもしれませんが)であったり、自分の貢献できる場所はここではないのではないか、といった何とも言えない違和感が生じてきたのも紛れのない事実であります。
また同時にその頃、本学におけるカリキュラム改革のお話を聞くにつけ、自分の立場で全く何もできない無力感であったり、忸怩たる思いであったり、そういうものが積み重なってきました。かつて色々と考えを巡らした、教育システムを作っていくという仕事への興味がまた湧いてきたわけであります。そのような立場は、現在の場所では私の入る余地がないようで、そのような仕事をしたい場合には他の場所に求める必要がありました。
さはさりながら、滋賀に来て15年、どっぷりと浸かりどっしりと根を下ろしてしまっている自分が、滋賀医大以外の職場に行くことなどは妄想でしかなく、そのような選択肢は意識の外に追いやられ、何とも言えない居心地の悪さを感じて過ごしていたものでした。
2019年、たまたま訪れた出雲の地。初めて宍道湖の上を飛んでいる時に「あ、ここにまた来ることになる」と、何か不思議な感覚を覚えました。その後いくつかの偶然?必然?が重なり、出雲大社様が結んでくださったに違いないご縁もあって、教育を追求することの出来る職のお話をいただきました。なんというタイミング。まさに僥倖。
まだまだ滋賀県下の病院にも呼吸器内科医がいないという病院がたくさんあり、そういう意味では道半ばとなりますが、医局には若い先生も増え、私がいなくてもどんどんこれから発展していくことでしょう。カンファレンスではN先生やU先生が積極的に発言してくださり、2018年以降に入局された先生方、Y先生、O先生、T先生、そして今年のM先生、N先生、Y先生は皆、キラキラしていて、意欲があり勉強熱心で、希望しかありません。
NMB48を卒業した山本彩ではありませんが、私が卒業することで滋賀医大呼吸器内科の起爆剤とならんことを念願し、この度島根大学への異動を決めた次第です。 滋賀医大は卒業という形にはなりますけど、私自身の夢はまだまだです。生涯現役というのが今の私の目標で、もっともっと医学教育を勉強して、一生涯みなさんの前で教育をし続けていられる人間でいたいとこれから先も思っています。今日までどんなことがあっても前を向いて頑張ってくれたのも、一緒に頑張って来たメンバー、そしてスタッフの皆様のお陰だと心から思っています。本当にありがとうございます。
時節柄、対面での会は全面的に禁止されております関係上、送別会なんかもなく、なんとなくこういったことをお話しする機会もないようなので、山本彩の卒業発表コメントを一部引用して、ちょっと振り返ってみました。


ご活躍拝見しております。
現在滋賀医大担当医から僕では見れないと転院を勧められています。
堺市か東京にセカンドオピニオン行ってそちらで治療とか言われて困っています。
滋賀で治療がしたいです。
CTで影も出てきています。
中野教授は私の病気は診て頂けないのでしたら、推薦の病院、私の病気を診れる先生をご紹介頂けないでしょうか❓