看取り。
お別れ、に際して、です。
高齢化、長寿になって、この日本で普段、日常的に永久のお別れをする機会はほとんどありません。学生さんなら、なおさら、でしょう。
でも、人は必ず最期を迎えます。必ず、です。
どのようにお別れを迎えるか。
残った肉親たちの心の準備、諸々に対してできることはあるか。
家庭医である以上、患者さんの人生に深く立ち入る、暮らしを支えるという行為の延長線上には、看取りが必ずあるのです。
先の地震、津波、それ以外にも台風などの自然災害で、多くの方々が犠牲になりました。
日本でこんなに多くの生命が一瞬で、前触れなく、理不尽に奪われる、ということはこれまで数十年間ほとんどなく、こういう経緯で肉親を奪われた方のご無念はいかばかりか、という報道も多くありました。
突然の別れがなぜ悲しいのでしょうか。一つの面として、心の準備ができないから、というところがあります。突然の別れでは、残された肉親は理不尽を抱えたまま、残りの人生を生きることになるのです。
また、世界に目を向けると、いまだに数多くの紛争、飢餓などによって「理不尽に生命が奪われている」ところも少なくありません。
誤解を恐れず申し上げれば、高齢の方が、いわゆる老衰や、予測可能な疾患で、「準備できる最期」を迎えられるのは、恵まれた国日本ならでは、と言えるのかもしれません。
同じ別れでも、いかにそのときを悔いなく迎えるか、残された時を慈しみ、有り難く、精一杯生きる、それが正しい別れ、供養の準備となるのではないかと考えます。
私たち医療者が、患者さんには手を尽くした上で、でも治らない、生命予後に限りがある、その時に残された方々に対してできることがあるとするならば、それは正しくお別れを迎えていただくことではないか、と思うのです。
患者さん一人一人、それぞれの人生があります。その人生の幕引きを上級医とともに経験する、そういう機会も貴重な研修の一環ではないでしょうか。
2011年12月30日
これからの日本には、シンの(真の、芯の、心の)高スペック医師が必要。だとすると、初期研修で何を学ぶべきか3
posted by 長尾大志 at 20:04
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| ローテート研修・内科研修についての考え
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