日曜日の京都新聞で大谷大の鷲田清一教授が、待つということについて書いておられました。もう少し続けます。
(以下大意を引用、一部再掲)
待てないだけでなく、社会の方も待ってくれなくなった。組織での業務や、政治、学問においても、成果が出るのをじっと待つ、という余裕がなくなっている。
農業や漁業が主たる生業であったときは、待つというのは当たり前の感覚であった。それが製造業や情報、サービス業まで、近代の産業は効率を競う。
待っても必ず報われるわけではない。時が経つのを息を殺して待つ。ときに待っていることも忘れるようになってはじめて、その時は訪れる。
そういう体験を何度も繰り返しているうち、ひとは焦らずに、待つこともなく待つという構えを身につける。こんなことを繰り返す中で、ひとは鍛えられてゆく。
深く傷ついた心にもいずれ癒えの訪れる日が来ると、思いさだめることもできるようになる。
待つことができなくなるというのは、自分が待たれているという感覚を失うことでもある。
人々からの呼びかけや訴えにこたえるという感覚、つまりまさにこの私がいま誰かから呼び出されているという「務め」の感覚も、ずいぶん薄れてきている。
そして、何もしてくれない、と文句ばかり言うようになっている。
(引用ここまで)
便利な世の中です。日常的に「ただ、待たされる」ということは少なくなりました。しょうもないたとえですが、たとえばビデオを見るのも、以前は巻き戻しが必要であったり、見たい箇所がすぐに出てこなかったりしたものが、今や一瞬で見たいところが出てくるわけです。
うちの子供でも、「見たい場面」がすぐ出てこないと「まだ?」と待てなくなってきている残念な現実です。つまり、待たされないことになれてしまうと、待つためのトレーニングができない、ということになるのでしょう。
そんなわけで、皆がすぐの結果を求めるようになってきました。世の中全体がこうなってきたことで、こころの余裕を奪い、他人に対する配慮に欠けた人々が増えてきたのかもしれません。
最近で言うところの、クレーマーやモンスター○○として、文句ばかり言うような方々、ちょっとのことが待てない。すぐにキレる、というのは、若者ではなく、今の中年以降の方々でもしばしば見かけられるものであります。
なるほど、この「務め」の感覚が薄らいでいることにもよるのかもしれません。
医療でも似たところがあります。投薬して、待つ。ただボーッと待つのではなく、結果を想定して、次の一手の構えを持ちながら、よく患者さんを観察し、待つ。うまくいかなければ、そこから学びが得られる。これも農作物を育てる手順に似ています。
こういうやり方が性に合わず、結果が全て、という考え方がどうも多くなっているように見受けられるわけです。
まずは、じっくり待つ、ということも、時には必要ではないでしょうか。こういう時代であるからこそ。
2012年03月01日
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