ローテーターお疲れ兼O先生歓迎会にて、出たお話。
今回のローテーター諸君は、これまで回った科ではほとんど軽症症例の受け持ちばかりで、重症症例をウチではじめて受け持った、と言っていました。
その際に、診断や治療、そのあたりのことももちろんですが、患者さんへの説明に戸惑った、と言います。
それはそうでしょう。
当然ウチでは、きっちりとした病状説明は上級医が行いますが、ちょっとしたこと(たとえば、今日のCTの結果とか)を尋ねられても、どういう言い方をしたらよいか、最初のうちは難しいでしょう。「こんなことまで言っていいのか。」「こういういい方をして、ショックに思われたりしないか。」
「こう言えばいい」という正解、模範解答は、残念ながらありません。状況や受け手、タイミングによって、表現の仕方を変えることもあります。ただ、結果を正しく申し上げればいい、というものではないこともあります。
これはもうコツ、などというレベルで語れるものではありません。例えば上級医で患者さんに絶大な信頼を得ている方がいたとして、何から何までそのドクターのまねをすればいい、というものではないでしょう。
その上級医とあなたは、違う人間なのです。性格、向き不向き、キャリアから何から、いろいろな面で違うわけで、あなたに向いているやり方というものが、必ずあるはずなのです。
「私に任せておけば大丈夫」的な感じで、自信たっぷりに言うのが得意な人もいれば、とにかくあらゆるデータを駆使してしゃべりまくるのが得意な人もいる。能弁に語るのではなく、ぽつりぽつりと語られることもあるし、患者さんにまず語ってもらうのがやりやすい、ということもあるでしょう。
そして、なかなか自分でも、どのやり方があっているか、わからないことも多いものです。やはり、仮説と検証を繰り返して、「あなたオリジナル」の理想に近づいていく、それしかないのでしょう。
そうすると、勧められるのは、やはり「多くの上級医のやり方を見る」こと。多くの上級医の、いろいろな話し方、いいところ、反面教師、等々を見て、「ここは自分に合う」「こうやったら良さそうだ」「これは自分には無理だ」というところを取捨選択していくわけです。
「自分だったらどういう風に話すか」考えながら上級医の説明を一緒に聞き、なるほど、と思える話し方や表現方法は積極的に取り入れ、これは違うな、と思うものは取り入れない。
さらに、その後患者さんやご家族に「さっきの説明はどうでしたか?わかりにくいことはありませんでしたか?」と尋ねたりして、先の説明でこの程度の理解が得られるのだ、ということを確認する。
その課程で、以前にも書いた「守破離」の各段階を経るのです。
すなわち、上級医のやり方をそっくりまねる「守」。
少し自分なりの考えでもって変えてみる「破」。
検証の上、自分オリジナルでやってみる「離」。
多くの上級医がいる大学で研修すると、多くの実例を見る機会があるわけで、この「守破離」がやりやすいという、メリットがあるのです。これは病状説明に限ったことではありませんが。
2012年08月20日
2012年05月09日
選択の科学The Art of Choosingすげー7
昨日で終わろうかとも思ったのですが、ちょっと付け足し。
本の中では、こんなことも述べられていました。
私たち一人一人は、一生の間に(昨日の記事と)同様の苦渋に満ちた決断を迫られる可能性が高いのです。アルツハイマー病患者は全米で450万人いると言われていますし、毎年6万人が新しくパーキンソン病と診断されています。また、男性の2人に1人、女性の3人に1人は浸潤性の癌を発症するといいます。
医療の質が向上し、寿命が延び、高齢化が進むことで、いつか親や愛するもの達、ひいては自分自身について、難しい選択を迫られる可能性が増す、という事態が生じやすくなってきているのです。
「たとえば、事故を起こしたりする用心のために母の車のキーを隠すべきだろうか。それともできるだけ自立した生活を送りたいという母の望みを聞き入れて、キーを渡すべきだろうか。…(中略)父が自力でものを食べられなくなったら、常時介護が受けられる介護施設に入れたほうがいいのか、それともヘルパーを頼むなどして、住み慣れた環境で、ある程度自分の意志で生活できるように暮らさせてあげるべきだろうか?」
どんな高齢であっても、病人であっても、人は自分に残されたわずかな自由を守ろうとして、他人の助けを拒絶することがあります。愛するものの選択を「取り上げる」ことを決定するのも、家族にとってはつらいプロセスでしょう。
そこで、医師が「○○さん、もう危ないから、運転はやめときましょうよ。」と一言申し上げれば、家族が祖母の運転免許証を返還するかどうかの葛藤を断ち切るきっかけとなり、無用の事故が1つ、減ることにつながるのかもしれません。
私たちは介護者になることで、選択にまつわる精神的負担を、他人の分まで引き受けることになります。
教授の同僚の経験、「治療をどうするか、介護をどうするかで何年も悩んでいたある日、突然はっと気づいたのは、母が、私が何をやってもやらなくても、いつかは亡くなるってこと。自分が母を治せないこと、母に自主性を戻してあげられないことを理解することは、私にとって本当に大切なことだった。そのおかげで、一緒に暮らした最後の数年間は、質の高い生活を2人で送ることだけを考えることができたの。完璧な介護者であろうとしていた時は、(却ってイライラしたり、母を怒ったりすることが多く)とてもそんなことはできなかった。」
長々と書いてきましたが、本の内容はとてつもなく広大で、様々なデータが引用されており、ここに記したのはホンのさわり、病状説明に関するところのごく一部に過ぎません。まだまだ「使える」データ、奥深い考察が満載なのです。
GWは終わりましたが、1人でも多くの方が、「選択の科学」をじっくり読まれて、より深い理解をされんことを念願するものであります。
本の中では、こんなことも述べられていました。
私たち一人一人は、一生の間に(昨日の記事と)同様の苦渋に満ちた決断を迫られる可能性が高いのです。アルツハイマー病患者は全米で450万人いると言われていますし、毎年6万人が新しくパーキンソン病と診断されています。また、男性の2人に1人、女性の3人に1人は浸潤性の癌を発症するといいます。
医療の質が向上し、寿命が延び、高齢化が進むことで、いつか親や愛するもの達、ひいては自分自身について、難しい選択を迫られる可能性が増す、という事態が生じやすくなってきているのです。
「たとえば、事故を起こしたりする用心のために母の車のキーを隠すべきだろうか。それともできるだけ自立した生活を送りたいという母の望みを聞き入れて、キーを渡すべきだろうか。…(中略)父が自力でものを食べられなくなったら、常時介護が受けられる介護施設に入れたほうがいいのか、それともヘルパーを頼むなどして、住み慣れた環境で、ある程度自分の意志で生活できるように暮らさせてあげるべきだろうか?」
どんな高齢であっても、病人であっても、人は自分に残されたわずかな自由を守ろうとして、他人の助けを拒絶することがあります。愛するものの選択を「取り上げる」ことを決定するのも、家族にとってはつらいプロセスでしょう。
そこで、医師が「○○さん、もう危ないから、運転はやめときましょうよ。」と一言申し上げれば、家族が祖母の運転免許証を返還するかどうかの葛藤を断ち切るきっかけとなり、無用の事故が1つ、減ることにつながるのかもしれません。
私たちは介護者になることで、選択にまつわる精神的負担を、他人の分まで引き受けることになります。
教授の同僚の経験、「治療をどうするか、介護をどうするかで何年も悩んでいたある日、突然はっと気づいたのは、母が、私が何をやってもやらなくても、いつかは亡くなるってこと。自分が母を治せないこと、母に自主性を戻してあげられないことを理解することは、私にとって本当に大切なことだった。そのおかげで、一緒に暮らした最後の数年間は、質の高い生活を2人で送ることだけを考えることができたの。完璧な介護者であろうとしていた時は、(却ってイライラしたり、母を怒ったりすることが多く)とてもそんなことはできなかった。」
長々と書いてきましたが、本の内容はとてつもなく広大で、様々なデータが引用されており、ここに記したのはホンのさわり、病状説明に関するところのごく一部に過ぎません。まだまだ「使える」データ、奥深い考察が満載なのです。
GWは終わりましたが、1人でも多くの方が、「選択の科学」をじっくり読まれて、より深い理解をされんことを念願するものであります。
posted by 長尾大志 at 13:40
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2012年05月08日
選択の科学The Art of Choosingすげー6
医学的に厳しい状態におかれた患者さんがいるとしましょう。たとえば、人工呼吸器でかろうじて生命維持はできているものの、回復の見込みはなく、人工呼吸器を停止されてしまえば生命反応停止を意味する。
日本ではそういう場合、人工呼吸器の停止をする、という選択肢は現実問題としては「ない」のですが、米国では、尊厳死という言葉もあり、「ある」と考えてください。
医師はそれぞれの選択肢がどのような結果をもたらすかについて詳しく説明し、どんな質問にも答えました。その上で、延命中止の決定を下すのが医師である場合と、近親者である場合とで、残された人々が感じていた苦悩に違いはあったのでしょうか。
前者の場合、「ああするしかなかった」という確信を口にされることが多く、より患者さんが亡くなったことを受けいれやすいように見えました。
「確かに○○(名前)を失ったけれども、○○は私たちに大切なことを教えてくれた。」「あれは運命だった」という台詞が聞かれたそうです。
一方後者の場合、「あの選択でよかったのか」という苦悩、ストレスを残された人が負うことが見受けられました。
また、別の調査では、情報のある非選択者(前者に相当)、情報のある選択者(後者に相当)、情報のない非選択者(一昔前のように、説明を受けずに医師が治療法を選択する)を比較すると、「情報のある非選択者」が持っていた否定的感情は、「情報のある選択者」「情報のない非選択者」ほど強くなかったのです。
つまり、最終判断を下すのが仮に医師であっても、治療の「選択肢」を提示することで、状況のもたらす悪影響を和らげられることが明らかとなった、とされています。
また、「選択者」は、「非選択者」に比べて、判断に対する確信は強いものの、正しいと確信していたにもかかわらず、つらい気持ちも感じていたということです。
さらに、結果的に医師たちが延命治療を継続した、という場合でも、選択者の方が否定的な感情を多く持っていたとのことです。
すなわち、否定的な感情の大きさを決定する要因は、結果というよりも、自分がその結果をもたらした、という認識にあるように思われました。
加えて、医師が一方の選択肢を「医学的にみて望ましい」選択肢であると表明することによって、選択者と非選択者の感情に違いが見られなくなったのです。
アイエンガー教授は、これらの結果から、医師が望ましい選択肢をはっきり示すことで、困難な決定を担う人たちの負担を軽減できる可能性がある、ということ、そして、難しい選択の全責任、あるいは主要な責任を担わされる人たちの心にのしかかる重圧が、どれだけ大きいかが明らかになった、としています。
インフォームド・コンセントなどが一般的になって、患者さんやご家族に医療行為の選択をゆだねる、という場面も多くなっているかと思います。昨今ではインターネットである程度「医学的知識」も収集できるようになってきています。
ただ、そうはいっても医学知識、他の患者さんでどのようになったか、など、選択するために必要な情報は、当然医師の方が多く有しており、「妥当な」選択を下しやすい立場ではあるわけです。
というようなことを、病状説明にあたっては参考にして頂けるのではないか、と思い、ちょっと長々と、記事にしてみました。
日本ではそういう場合、人工呼吸器の停止をする、という選択肢は現実問題としては「ない」のですが、米国では、尊厳死という言葉もあり、「ある」と考えてください。
医師はそれぞれの選択肢がどのような結果をもたらすかについて詳しく説明し、どんな質問にも答えました。その上で、延命中止の決定を下すのが医師である場合と、近親者である場合とで、残された人々が感じていた苦悩に違いはあったのでしょうか。
前者の場合、「ああするしかなかった」という確信を口にされることが多く、より患者さんが亡くなったことを受けいれやすいように見えました。
「確かに○○(名前)を失ったけれども、○○は私たちに大切なことを教えてくれた。」「あれは運命だった」という台詞が聞かれたそうです。
一方後者の場合、「あの選択でよかったのか」という苦悩、ストレスを残された人が負うことが見受けられました。
また、別の調査では、情報のある非選択者(前者に相当)、情報のある選択者(後者に相当)、情報のない非選択者(一昔前のように、説明を受けずに医師が治療法を選択する)を比較すると、「情報のある非選択者」が持っていた否定的感情は、「情報のある選択者」「情報のない非選択者」ほど強くなかったのです。
つまり、最終判断を下すのが仮に医師であっても、治療の「選択肢」を提示することで、状況のもたらす悪影響を和らげられることが明らかとなった、とされています。
また、「選択者」は、「非選択者」に比べて、判断に対する確信は強いものの、正しいと確信していたにもかかわらず、つらい気持ちも感じていたということです。
さらに、結果的に医師たちが延命治療を継続した、という場合でも、選択者の方が否定的な感情を多く持っていたとのことです。
すなわち、否定的な感情の大きさを決定する要因は、結果というよりも、自分がその結果をもたらした、という認識にあるように思われました。
加えて、医師が一方の選択肢を「医学的にみて望ましい」選択肢であると表明することによって、選択者と非選択者の感情に違いが見られなくなったのです。
アイエンガー教授は、これらの結果から、医師が望ましい選択肢をはっきり示すことで、困難な決定を担う人たちの負担を軽減できる可能性がある、ということ、そして、難しい選択の全責任、あるいは主要な責任を担わされる人たちの心にのしかかる重圧が、どれだけ大きいかが明らかになった、としています。
インフォームド・コンセントなどが一般的になって、患者さんやご家族に医療行為の選択をゆだねる、という場面も多くなっているかと思います。昨今ではインターネットである程度「医学的知識」も収集できるようになってきています。
ただ、そうはいっても医学知識、他の患者さんでどのようになったか、など、選択するために必要な情報は、当然医師の方が多く有しており、「妥当な」選択を下しやすい立場ではあるわけです。
というようなことを、病状説明にあたっては参考にして頂けるのではないか、と思い、ちょっと長々と、記事にしてみました。
posted by 長尾大志 at 18:11
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2012年05月07日
選択の科学The Art of Choosingすげー5
次の章では、実際の「流行」はどうやって作られるか、また、同じメーカーで異なるブランドを展開している企業の事例など、興味深く読めましたが、さすがに本筋から外れますので、省略します。
そして、アイエンガー教授の有名なジャム研究。
要するに、選択肢は多い方がいいんじゃないか、と何となく思われていたのですが、そうでもない、せいぜい○個ぐらいが適当、という話です。
多すぎると、人はどれを選んだらいいかわからなくなって、結局買わない、ということらしいです。
これは様々な調査から同様の知見が得られていて、そういうときにどうするか、というと、最終的にはやはり専門家の助けを借りる、ということで「妥当な」「納得のいく」選択が可能になる、とされています。
たとえば、(アメリカの例で言うと)年金プランは星の数ほどありますが、専門家の助言を得た人々は、きっちりとリターンを得ていたのに対し、そうでなかった人々はあまり適切なプランを選択しなかったり、そもそも年金加入をしなかったりで、大幅にリターンが少なかった、という事例が挙がっていました。
永らく、関係なさそうな話が続きましたが…お待たせしました。
明日はいよいよ、医学的に厳しい状態におかれた患者さんの家族の選択と、その結果、そしてその選択を下したことについて、あとでその家族がどのように振り返っていたか、その調査結果と、その結果を踏まえて、病状説明で気をつける点について考察していきたいと思います。
そして、アイエンガー教授の有名なジャム研究。
要するに、選択肢は多い方がいいんじゃないか、と何となく思われていたのですが、そうでもない、せいぜい○個ぐらいが適当、という話です。
多すぎると、人はどれを選んだらいいかわからなくなって、結局買わない、ということらしいです。
これは様々な調査から同様の知見が得られていて、そういうときにどうするか、というと、最終的にはやはり専門家の助けを借りる、ということで「妥当な」「納得のいく」選択が可能になる、とされています。
たとえば、(アメリカの例で言うと)年金プランは星の数ほどありますが、専門家の助言を得た人々は、きっちりとリターンを得ていたのに対し、そうでなかった人々はあまり適切なプランを選択しなかったり、そもそも年金加入をしなかったりで、大幅にリターンが少なかった、という事例が挙がっていました。
永らく、関係なさそうな話が続きましたが…お待たせしました。
明日はいよいよ、医学的に厳しい状態におかれた患者さんの家族の選択と、その結果、そしてその選択を下したことについて、あとでその家族がどのように振り返っていたか、その調査結果と、その結果を踏まえて、病状説明で気をつける点について考察していきたいと思います。
posted by 長尾大志 at 12:31
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2012年05月06日
選択の科学The Art of Choosingすげー4
昨日の続きです。シーナ・アイエンガー教授著「選択の科学」、かいつまんだ内容を紹介させて頂いております。もうGWは1日しかありません!思い立った方は書店へGO!
経験則と呼ばれるものがあります。選択を左右するバイアス、みたいなことです。
たとえば、想起しやすさ。
あの人の印象を決めているのは、あの時のあの赤い服、であったとします。普段はもっと地味な服を着ていても、印象に残っている赤い服を想起しやすい場合、「あの人は赤い服が好みなのだ」と思われがちと言います。
口コミとかもそうで、友人の一言が、インターネットの推薦コメントよりも店の印象を左右したりすることもあるでしょう。
たとえば、提示される方法。
これは広告やなんかで統計を見せられるときによく経験します。少しの差を大きく見せたり、ジャンルの違うものと比べたり、ということですね。
たとえば、関連づけ。
古くは星座もそうですし、バブル経済の時に「このまま上がり続ける」と何となく人々が信じた、パターン認識にも見ることができます。
たとえば、確認バイアス。
私たちはすでに何らかの「思い込み」を持っている場合に、それを裏付けるような情報を優先的に採用しがちだそうです。それだけでなく、その誤りを証明しかねない情報を、退けることすらするというのです。これ、結構身につまされます…。
ともかく、このような様々なバイアスによって、「正しい」選択が揺らぐ中、どうすれば「妥当な」選択をすることができるか。その1つの回答が、「専門的知識を持つ」ということ。
しかしながら実際、様々な分野において専門的知識を持つことは不可能であるため、専門家の助言を得るということがそれに置き換わるものとして活用されている、ということです。
他にも自動システムと熟慮システムの葛藤、就職活動に関する研究、たとえば恐怖心と好意のような強い感情を脳が混同する、など、面白いところもありますが、先を急ぎましょう。
経験則と呼ばれるものがあります。選択を左右するバイアス、みたいなことです。
たとえば、想起しやすさ。
あの人の印象を決めているのは、あの時のあの赤い服、であったとします。普段はもっと地味な服を着ていても、印象に残っている赤い服を想起しやすい場合、「あの人は赤い服が好みなのだ」と思われがちと言います。
口コミとかもそうで、友人の一言が、インターネットの推薦コメントよりも店の印象を左右したりすることもあるでしょう。
たとえば、提示される方法。
これは広告やなんかで統計を見せられるときによく経験します。少しの差を大きく見せたり、ジャンルの違うものと比べたり、ということですね。
たとえば、関連づけ。
古くは星座もそうですし、バブル経済の時に「このまま上がり続ける」と何となく人々が信じた、パターン認識にも見ることができます。
たとえば、確認バイアス。
私たちはすでに何らかの「思い込み」を持っている場合に、それを裏付けるような情報を優先的に採用しがちだそうです。それだけでなく、その誤りを証明しかねない情報を、退けることすらするというのです。これ、結構身につまされます…。
ともかく、このような様々なバイアスによって、「正しい」選択が揺らぐ中、どうすれば「妥当な」選択をすることができるか。その1つの回答が、「専門的知識を持つ」ということ。
しかしながら実際、様々な分野において専門的知識を持つことは不可能であるため、専門家の助言を得るということがそれに置き換わるものとして活用されている、ということです。
他にも自動システムと熟慮システムの葛藤、就職活動に関する研究、たとえば恐怖心と好意のような強い感情を脳が混同する、など、面白いところもありますが、先を急ぎましょう。
posted by 長尾大志 at 19:03
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2012年05月05日
選択の科学The Art of Choosingすげー3
昨日の続きです。シーナ・アイエンガー教授著「選択の科学」、非常に示唆に富む内容でありますので、特に時間のある学生さんには是非読んで頂きたいのですが、多忙な研修医・レジデントの皆さんのために、かいつまんだ内容を紹介させて頂きます。
占いとか、予言者とか、ありますよね。
そういうことを信じている方は、今回は読まれないようにお願いします。
反論をいただいても、私では対応困難ですので。
まあ、これは米国で育った著者の考え、ということを前提に読んでいただければと思います。
人は誰でも、自分は個性的である、「その他大勢」とは少し違うと思っているのですが、実際のところ、人は自分が思うほどには他人と違っていないのです。そして、人(誰でも)がもつ自己イメージや理想像は、だいたい同じようなものなのです。
ですから、占いとかをやっている人は、この前提をもって、あとはお客さん?の反応、表情を見ながら、占いを組み立てていく、こうすれば、多くのお客さんは「当たった!だって私は、他の人とは違うのだもの」となるのです。
多くの人は、自分はその他大勢とは少し違っていて、それでいてあまりにも違いすぎず、という場所が居心地がいいようです。自分自身のことは隅から隅まで知っている、でも他人のことは、ほんの一部しか知らない。自分が考えて出した結論は、その思考過程が(いろいろ考えたことが)つぶさにわかるが、他人の結論は結論しか見えず、「安易に、他人と同じ」結論を出したかのように見える、というのが一つの理由だそうです。
イソップ物語の「すっぱいブドウ」の話は、ご存じの方が多いと思います。キツネがブドウをとろうとするのですが、どうしてもとれない。あきらめて立ち去るときに「どうせあのブドウはすっぱいさ」と言う、という話です。
このキツネの行動は、私たちが自分の信念と行動の不一致(これを不協和といいます)に気づいたときに、これを軽減するために本能的に取る方法の典型例であるそうです。
自分の行動が信念に矛盾していることに気づいても、行動を取りやめることができないため、信念の方を行動にあわせて変更することで、矛盾を解消するわけです。
たとえばこのキツネが、実際にブドウを食べてみて、それがすっぱかったなら、「すっぱいブドウもいいもんだ」と言ったかもしれません。
同様に、私たちがいったん自己像を作り上げると、それを裏付けるような選択をすることで、不協和を事前に回避しようとします。この例も豊富にあるのですが省略。
また、私たちは、自分の「人となり」を他人にできる限り正確に見せるように、ライフスタイルを組み立てていく傾向にあるそうです。衣服や食べ物の好みに始まり、行動や仕事面での選択もそうなのですね。
日々の選択を行う際に、自分の人となりや目標に対してどのような選択が合致しているか、ということのみならず、その選択が他人に対してどう写るか、どう受け止められるか、ということも計算して選択をしている、というのです…。
その他、自己イメージと他人による認識のギャップ、など、興味深い考察はたくさんあるのですが、少し飛ばしまして、明日は選択を左右するバイアスについて考察しましょう。
う〜ん、ますます医療から離れてきた…。いや、でも、このくだりは今後の展開に大切なので、もう少しおつきあいください。
そしてどうやら、GW中には終わりそうにないですね…。
占いとか、予言者とか、ありますよね。
そういうことを信じている方は、今回は読まれないようにお願いします。
反論をいただいても、私では対応困難ですので。
まあ、これは米国で育った著者の考え、ということを前提に読んでいただければと思います。
人は誰でも、自分は個性的である、「その他大勢」とは少し違うと思っているのですが、実際のところ、人は自分が思うほどには他人と違っていないのです。そして、人(誰でも)がもつ自己イメージや理想像は、だいたい同じようなものなのです。
ですから、占いとかをやっている人は、この前提をもって、あとはお客さん?の反応、表情を見ながら、占いを組み立てていく、こうすれば、多くのお客さんは「当たった!だって私は、他の人とは違うのだもの」となるのです。
多くの人は、自分はその他大勢とは少し違っていて、それでいてあまりにも違いすぎず、という場所が居心地がいいようです。自分自身のことは隅から隅まで知っている、でも他人のことは、ほんの一部しか知らない。自分が考えて出した結論は、その思考過程が(いろいろ考えたことが)つぶさにわかるが、他人の結論は結論しか見えず、「安易に、他人と同じ」結論を出したかのように見える、というのが一つの理由だそうです。
イソップ物語の「すっぱいブドウ」の話は、ご存じの方が多いと思います。キツネがブドウをとろうとするのですが、どうしてもとれない。あきらめて立ち去るときに「どうせあのブドウはすっぱいさ」と言う、という話です。
このキツネの行動は、私たちが自分の信念と行動の不一致(これを不協和といいます)に気づいたときに、これを軽減するために本能的に取る方法の典型例であるそうです。
自分の行動が信念に矛盾していることに気づいても、行動を取りやめることができないため、信念の方を行動にあわせて変更することで、矛盾を解消するわけです。
たとえばこのキツネが、実際にブドウを食べてみて、それがすっぱかったなら、「すっぱいブドウもいいもんだ」と言ったかもしれません。
同様に、私たちがいったん自己像を作り上げると、それを裏付けるような選択をすることで、不協和を事前に回避しようとします。この例も豊富にあるのですが省略。
また、私たちは、自分の「人となり」を他人にできる限り正確に見せるように、ライフスタイルを組み立てていく傾向にあるそうです。衣服や食べ物の好みに始まり、行動や仕事面での選択もそうなのですね。
日々の選択を行う際に、自分の人となりや目標に対してどのような選択が合致しているか、ということのみならず、その選択が他人に対してどう写るか、どう受け止められるか、ということも計算して選択をしている、というのです…。
その他、自己イメージと他人による認識のギャップ、など、興味深い考察はたくさんあるのですが、少し飛ばしまして、明日は選択を左右するバイアスについて考察しましょう。
う〜ん、ますます医療から離れてきた…。いや、でも、このくだりは今後の展開に大切なので、もう少しおつきあいください。
そしてどうやら、GW中には終わりそうにないですね…。
posted by 長尾大志 at 12:12
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2012年05月04日
選択の科学The Art of Choosingすげー2
昨日の続きです。シーナ・アイエンガー教授著「選択の科学」、非常に示唆に富む内容でありますので、特に時間のある学生さんには是非読んで頂きたいのですが、多忙な研修医・レジデントの皆さんのために、かいつまんだ内容を紹介させて頂きます。
GW中は続くかもしれません…。まあ、見ている方も少ないと思うので、たまにはいいでしょう(最後には、ちゃんと医療の話になりますので)。
個人の選択を行う際に、その人が個人主義的な文化に属しているか、集団主義的な文化に属しているかが、大きく影響します。
個人主義的文化と集団主義との違いは、たとえば取り決め婚(集団主義的な社会における)と恋愛結婚(個人主義的な社会での)はどちらが幸せか、とか、かなり興味深い考察があるのですが、本筋から外れますので省略。
いくつかの実験から言えることは、個人主義文化で育った人は、選択を「自分で」決定することに重きを置き、自分で選択できる選択肢が多い方が、たとえば仕事面でのモチベーションが上がったり、学業の成績が上がったりする一方で、集団主義文化で育った人は、たとえば「母親が課題を選択した」方が子供の成績が良かったり、最初からマニュアルのような、選択の余地がないものが多い方が仕事面でのモチベーションが高かったりするそうです。
1989年にベルリンの壁が壊された後、元々東ドイツであった東ベルリン市民はあふれんばかりの自由(と選択肢)を享受したのですが、時間が経つにつれ、それに対する戸惑いや不満が増しているという調査もあり、かれらが元々持っていたものの考え方に環境が合わない場合、それがどうやらストレスになるようだ、ということがわかってきました。
すなわち、アメリカのような個人主義社会では、人はより「自己決定権」が多いことを重要視し、集団主義社会では、「周囲との調和」「公平であること」などを重んじるようです。
このような背景を理解することが、「異文化」の理解にも役立つのではないでしょうか。
GW中は続くかもしれません…。まあ、見ている方も少ないと思うので、たまにはいいでしょう(最後には、ちゃんと医療の話になりますので)。
個人の選択を行う際に、その人が個人主義的な文化に属しているか、集団主義的な文化に属しているかが、大きく影響します。
個人主義的文化と集団主義との違いは、たとえば取り決め婚(集団主義的な社会における)と恋愛結婚(個人主義的な社会での)はどちらが幸せか、とか、かなり興味深い考察があるのですが、本筋から外れますので省略。
いくつかの実験から言えることは、個人主義文化で育った人は、選択を「自分で」決定することに重きを置き、自分で選択できる選択肢が多い方が、たとえば仕事面でのモチベーションが上がったり、学業の成績が上がったりする一方で、集団主義文化で育った人は、たとえば「母親が課題を選択した」方が子供の成績が良かったり、最初からマニュアルのような、選択の余地がないものが多い方が仕事面でのモチベーションが高かったりするそうです。
1989年にベルリンの壁が壊された後、元々東ドイツであった東ベルリン市民はあふれんばかりの自由(と選択肢)を享受したのですが、時間が経つにつれ、それに対する戸惑いや不満が増しているという調査もあり、かれらが元々持っていたものの考え方に環境が合わない場合、それがどうやらストレスになるようだ、ということがわかってきました。
すなわち、アメリカのような個人主義社会では、人はより「自己決定権」が多いことを重要視し、集団主義社会では、「周囲との調和」「公平であること」などを重んじるようです。
このような背景を理解することが、「異文化」の理解にも役立つのではないでしょうか。
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2012年05月03日
選択の科学The Art of Choosingすげー1
以前にも触れましたシーナ・アイエンガー教授著「選択の科学」、ようやく読了しました。
途中までも「なるほど〜」の連続でしたが、圧巻は第7講。
医学的に厳しい状態におかれた患者さんの家族の選択と、その結果、そしてその選択を下したことについて、あとでその家族がどのように振り返っていたか、きっちりと裏付けをとった研究デザインがくまれていました。
非常に示唆に富む内容でありますので、特に時間のある学生さんには是非読んで頂きたいのですが、多忙な研修医・レジデントの皆さんのために、かいつまんだ内容を紹介させて頂こうと思います(でも興味がわいた方は、是非通して読まれることをお勧めします!GWですし)。
まず、そもそも動物には「選択したい」という欲求があります。これはラットの実験でも明らかになっていて、かなり根源的な欲求のようです。
自分の置かれている状況が、ほとんど何も選択の余地がない、選択できない立場の生き物、たとえば動物園の動物は野生の動物よりも寿命が随分短い。
あるいは、ストレスの多そうな、贅沢をしていてメタボそうな社長の寿命の方が、従業員の平均寿命よりも長い、ということがわかっています。
では、選択の幅は、多い方がいいのか。
もっと言えば、自由であればあるほど、人は幸せなのか。
これについては、皆さんもいろいろなお考えがおありでしょう。
ある調査によると、何もかもが決められているような、いわゆる原理主義的な宗教の信徒は(たとえば私たち日本人からすると、食べ物もあれはダメ、これもダメ、どこに行っても1日何回かのお祈り、果ては結婚相手も自由に選べない…)、他の人々に比べて、宗教により大きな希望を求め、逆境により楽観的に向きあい、鬱病にかかっている割合が低かったそうです。
逆に悲観主義と落ち込みの度合いが最も激しかったのは、無神論者や自由の多い宗教に属する人々でした。
制約は必ずしも自己決定権を損なわず、思考や行動の自由が必ずしも自己決定「感」を高めるわけではない、ということだそうです。
「自分の人生を自分でコントロールできている」という感覚は、その人がコントロールというものをどのように理解しているかによります。
その人がそもそも「個人の選択を通じてこそ、環境はコントロールできる」と信じているのか、「世界を支配するのは神であり、神の御旨を理解し、忠実に従ってこそ、人生に喜びを見いだせる」と信じているのか。おそらくそれは、どこで、どんな親の元で生まれたかによるので、コトはそう単純ではありません。
選択に対する考え方は、国によって、分化によって異なるのであります。
明日に続きます。
途中までも「なるほど〜」の連続でしたが、圧巻は第7講。
医学的に厳しい状態におかれた患者さんの家族の選択と、その結果、そしてその選択を下したことについて、あとでその家族がどのように振り返っていたか、きっちりと裏付けをとった研究デザインがくまれていました。
非常に示唆に富む内容でありますので、特に時間のある学生さんには是非読んで頂きたいのですが、多忙な研修医・レジデントの皆さんのために、かいつまんだ内容を紹介させて頂こうと思います(でも興味がわいた方は、是非通して読まれることをお勧めします!GWですし)。
まず、そもそも動物には「選択したい」という欲求があります。これはラットの実験でも明らかになっていて、かなり根源的な欲求のようです。
自分の置かれている状況が、ほとんど何も選択の余地がない、選択できない立場の生き物、たとえば動物園の動物は野生の動物よりも寿命が随分短い。
あるいは、ストレスの多そうな、贅沢をしていてメタボそうな社長の寿命の方が、従業員の平均寿命よりも長い、ということがわかっています。
では、選択の幅は、多い方がいいのか。
もっと言えば、自由であればあるほど、人は幸せなのか。
これについては、皆さんもいろいろなお考えがおありでしょう。
ある調査によると、何もかもが決められているような、いわゆる原理主義的な宗教の信徒は(たとえば私たち日本人からすると、食べ物もあれはダメ、これもダメ、どこに行っても1日何回かのお祈り、果ては結婚相手も自由に選べない…)、他の人々に比べて、宗教により大きな希望を求め、逆境により楽観的に向きあい、鬱病にかかっている割合が低かったそうです。
逆に悲観主義と落ち込みの度合いが最も激しかったのは、無神論者や自由の多い宗教に属する人々でした。
制約は必ずしも自己決定権を損なわず、思考や行動の自由が必ずしも自己決定「感」を高めるわけではない、ということだそうです。
「自分の人生を自分でコントロールできている」という感覚は、その人がコントロールというものをどのように理解しているかによります。
その人がそもそも「個人の選択を通じてこそ、環境はコントロールできる」と信じているのか、「世界を支配するのは神であり、神の御旨を理解し、忠実に従ってこそ、人生に喜びを見いだせる」と信じているのか。おそらくそれは、どこで、どんな親の元で生まれたかによるので、コトはそう単純ではありません。
選択に対する考え方は、国によって、分化によって異なるのであります。
明日に続きます。
posted by 長尾大志 at 18:30
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2011年09月25日
先輩の言葉、患者さんに説明するときの心得4・ゆっくり、大きな声で話す。
皆さんが忙しいのはよくわかります。
だから、早口が習慣になるのもわかるのですよ。
でも、そのために、伝えるべきことが伝わらないのは、
モッタイナイ。
折角時間をかけてお話をするのであれば、1割増にして、確実に伝える方がよい。
メッセージを簡潔にすれば、時間を1割削減できるかも。
意識して時間をかけ、ゆっくりしゃべってみましょう。
だから、早口が習慣になるのもわかるのですよ。
でも、そのために、伝えるべきことが伝わらないのは、
モッタイナイ。
折角時間をかけてお話をするのであれば、1割増にして、確実に伝える方がよい。
メッセージを簡潔にすれば、時間を1割削減できるかも。
意識して時間をかけ、ゆっくりしゃべってみましょう。
posted by 長尾大志 at 12:18
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| 病状説明の心得
2011年09月24日
先輩の言葉、患者さんに説明するときの心得3・キーワードを設定する、同じことを何度も繰り返す
以前からプレゼンの場でよく言われる
take home message
にあたるかと思いますが、色々申し上げても、それを全部理解し覚えろというのは、当然難しいものです。皆さんも、上級医に早口で指示を出されても、???結局どうしたらいいの?ってこともあるでしょう。
色々いわれても、記憶に残るのは最後に言われたこと、となりがちなんですね。
ですから、、1つ〜2つの、どうしても申し上げたいことを中心に、それを言葉を換え、角度を変えて何度も申し上げる工夫が必要です。
そうすることで、本当にお伝えしたいことが、患者さんの記憶に残るようにしたいものです。
take home message
にあたるかと思いますが、色々申し上げても、それを全部理解し覚えろというのは、当然難しいものです。皆さんも、上級医に早口で指示を出されても、???結局どうしたらいいの?ってこともあるでしょう。
色々いわれても、記憶に残るのは最後に言われたこと、となりがちなんですね。
ですから、、1つ〜2つの、どうしても申し上げたいことを中心に、それを言葉を換え、角度を変えて何度も申し上げる工夫が必要です。
そうすることで、本当にお伝えしたいことが、患者さんの記憶に残るようにしたいものです。
posted by 長尾大志 at 10:57
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| 病状説明の心得
2011年09月22日
先輩の言葉、患者さんに説明するときの心得2・医学生、医者になってから知った言葉は使うな
要するに、専門用語です。
カンファレンスなんかでは、「専門用語を使うべし」なんですが、患者さんに対して専門用語を使うのは、いきなりドイツ語(ドイツ語が得意だ、という人は、中国語でもスペイン語でも何でも、知らない言語を考えて下さい)で話されるようなものだと思いましょう。
皆さん、授業でよく経験があると思うのですが、話を聞いていて1語でも意味のわからない言葉が出てくると、そこで文脈の理解がストップしますね。
私の授業では、極力そういうことがないよう、言葉のセレクションはかなり意識しております。だからわかりやすいんですね(自画自賛)。
特に若い先生方は、医者になってから知った言葉は、まだ自分の言葉になっていないはず。ですから、自分の中で違和感のある言葉を避けることで、結果的に、かみ砕いた説明ができるかと思います。
カンファレンスなんかでは、「専門用語を使うべし」なんですが、患者さんに対して専門用語を使うのは、いきなりドイツ語(ドイツ語が得意だ、という人は、中国語でもスペイン語でも何でも、知らない言語を考えて下さい)で話されるようなものだと思いましょう。
皆さん、授業でよく経験があると思うのですが、話を聞いていて1語でも意味のわからない言葉が出てくると、そこで文脈の理解がストップしますね。
私の授業では、極力そういうことがないよう、言葉のセレクションはかなり意識しております。だからわかりやすいんですね(自画自賛)。
特に若い先生方は、医者になってから知った言葉は、まだ自分の言葉になっていないはず。ですから、自分の中で違和感のある言葉を避けることで、結果的に、かみ砕いた説明ができるかと思います。
posted by 長尾大志 at 10:51
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2011年09月21日
先輩の言葉、患者さんに説明するときの心得1
先輩の言葉です。
私が医師になってすぐに、先輩にこう言われました。
「キミが患者さんに説明したこと、どのくらい覚えてはると思う?」
やはり医学的なことは難しいから、100%は無理かな、緊張もしておられるだろうし、70%ぐらいでしょうか、と答えますと、
「1/4もないと思っとき」
とのこと。
数字はあくまで印象でしょうが、意識としては、申し上げたことはほとんど伝わっていない、ということでしょう。以降、肝に銘じてやっておりますが、私なりに工夫しているポイントをいくつかお示ししましょう。
皆さんが病状説明をされる上で、お役に立ちましたら幸いです。
私が医師になってすぐに、先輩にこう言われました。
「キミが患者さんに説明したこと、どのくらい覚えてはると思う?」
やはり医学的なことは難しいから、100%は無理かな、緊張もしておられるだろうし、70%ぐらいでしょうか、と答えますと、
「1/4もないと思っとき」
とのこと。
数字はあくまで印象でしょうが、意識としては、申し上げたことはほとんど伝わっていない、ということでしょう。以降、肝に銘じてやっておりますが、私なりに工夫しているポイントをいくつかお示ししましょう。
皆さんが病状説明をされる上で、お役に立ちましたら幸いです。
posted by 長尾大志 at 08:28
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| 病状説明の心得
2011年03月13日
病状説明は「患者さんの視点」で
病状説明をするときに、1人称で語っていませんか?
「カテーテルを挿入します」
「嘔気が見られたら、薬で対応します」
こういう語り方になっていませんか?
若い先生は、まだ余裕がないと、どうしても「これから起こること、すること」を、自分を主語にして語ってしまいがちです。
患者さんにとってどうなのか、という視点を持つように心がけると、患者さんにとってわかりやすい説明になるのではないか、と思います。
「カテーテルを挿入します」
「嘔気が見られたら、薬で対応します」
こういう語り方になっていませんか?
若い先生は、まだ余裕がないと、どうしても「これから起こること、すること」を、自分を主語にして語ってしまいがちです。
患者さんにとってどうなのか、という視点を持つように心がけると、患者さんにとってわかりやすい説明になるのではないか、と思います。
posted by 長尾大志 at 14:24
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| 病状説明の心得
2011年02月04日
ムンテラとはmundtherapie(mund=口、therapie=治療)たるべき
先輩の言葉。
「近頃は、単なる病状説明でも、インフォームド・コンセントを取るためのリスクの説明も、何でもかんでもムンテラっていう医者が多いけど、本当はムンテラって、口の治療って意味だから、言葉で患者さんを癒し、少しでも状態が良くなるための、内科医の重要な役割を指すんだよ。」
と教えてもらいました。
激しく同意します。
直接病巣を切ったりする外科医と違って、内科医の仕事は、薬をうまくつかうこと(ただ使うのではない)と、しっかり患者さんとお話しして、精神的な支えになることだと思います。言葉の役割は、若い先生方が思っているより何倍も重いものです。
近年は訴訟とかいろいろありますから、どうしてもリスクの説明をしておく、というのは仕方のないことですが、あらゆる危険な可能性ばかり説明されて、患者さんが不安に陥るケースもしばしば見受けます。
この辺のさじ加減、というのは、やはり患者さんと多く接してお話しして、ということでしか磨かれないものだと思います。
若い先生は、時間が空いたら患者さんのところへ行きましょう。
「近頃は、単なる病状説明でも、インフォームド・コンセントを取るためのリスクの説明も、何でもかんでもムンテラっていう医者が多いけど、本当はムンテラって、口の治療って意味だから、言葉で患者さんを癒し、少しでも状態が良くなるための、内科医の重要な役割を指すんだよ。」
と教えてもらいました。
激しく同意します。
直接病巣を切ったりする外科医と違って、内科医の仕事は、薬をうまくつかうこと(ただ使うのではない)と、しっかり患者さんとお話しして、精神的な支えになることだと思います。言葉の役割は、若い先生方が思っているより何倍も重いものです。
近年は訴訟とかいろいろありますから、どうしてもリスクの説明をしておく、というのは仕方のないことですが、あらゆる危険な可能性ばかり説明されて、患者さんが不安に陥るケースもしばしば見受けます。
この辺のさじ加減、というのは、やはり患者さんと多く接してお話しして、ということでしか磨かれないものだと思います。
若い先生は、時間が空いたら患者さんのところへ行きましょう。
posted by 長尾大志 at 09:37
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